パチンコにまつわるコラム|MGK 宮山技術研究所

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パチンコにまつわるコラム

第10話 「転職 — ゲージ設計CAD — 天職」

私の頭には、「パチンコ文化の発祥の地は名古屋である」と記憶があったので、宮山通信“パチンコの歩み”の主な出来事を確認しました。するとやはり太平洋戦争 終戦後、1946年にパチンコが復活。名古屋でいち早く生産開始・・・とありました。
私はまさしくこの1945年8月15日の日本敗戦の翌月9月10日に、5人兄弟の末っ子として誕生しました。 生まれる直前まで、家族は名古屋市中区大須(当時から現在まで商業の中心部)の長屋で暮らしていました。しかしアメリカの爆撃にさらされたために約20キロ離れた小牧市へ引っ越すことになりました。 その直後、終戦処理のためにアメリカ軍が(現在の)小牧空港に駐留してきました。

小学校時代は皆、貧乏生活でしたが、それでも名古屋の爆撃による焼け野原とは異なる小牧の農業主体の自然な環境の中で、サトノキ、野いちご、果てはよその家の柿をとって食べたものです。「欲しいものは自分で手に入れる」という習慣を自然に身につけていたのでしょうか。皆、服はスリキレ、靴はドロドロ、でも結構楽しかったものです。敗戦後の復興を目指してと言いますか、「生めよ増やせよの時代の落とし子」団塊の世代の先輩にあたるわけでありますよ。
当時は在日米軍向けにFEN放送局が発信するラジオ放送があり、jazzなる音楽を聴き、大いなるカルチャーショックを受けました。高校時代に「その時の音楽が何であるか」を知ることができたのですが、そこで出会ったのはデーブ・ブルーベック・カルテット(ポール・デスモンド:アルトサックス)によるテイクファイブでした。以降jazzファンになったのは言うまでもありません。
その後、小学校6年の3学期から名古屋市北区へ引っ越して現在に至ります。

さてパチンコとのふれあいは高校3年あたりから始まります。当時、親父は金属加工の下請け職人で、主に真鍮板材をカナヅチによる手仕上げで店舗用陳列ケースの部品を作って生計を立てていました。
その真鍮材は親会社から支給されていたのですが、板材の残った端材が結構残るので(・・・それは本来、親会社に返すべきものなんですが・・・)それをちょろまかして夜の8時頃に自転車で鉄屑屋さんへ売り飛ばし、結構な高値で現金を手にいれたものです。そんなあぶく銭を持ってパチンコに通いました。
当時のホールはせいぜい両サイドに2列の島があって、その内側に背中合わせで2列の島がありました。
1列あたり15台位だったでしょうか?もちろん自動補給装置の登場以前ですから、台の裏側には50〜60センチの通路があって、シュミーズのオバチャンが汗をかいてパチンコ台に球を補給してくれたものです。
こちらは左手で球を効率良く直径約12ミリの穴に向け(できるだけ早く送り込み)、右手ではハンドルをタイミング良くはじかなければ獲物にありつくことはできないわけです。
まさしく当時のパチンコは正村ゲージのハカマ釘が両サイドに配置され、その直下のチューリップ目指してひたすら球を打つのですが、つい熱中して台を押したり引っ張ったり、それも思いっきり力を入れてしまうので、よくオバチャンに怒られたもんです。

その後のカルチャーショックは・・・何と言っても1980年発表の三共様(現在のSANKYO)のフィーバーでしょう。その時、私は35才でパチンコホール用島工事・設備機器・製造販売の会社に勤務、パチンコホールの売り上げ管理をするコンピュータのシステムエンジニアを担当していました。
営業さんと同行してコンピューターのデモを行い、システムの機能を説明するのです。そんなある日、長野県のパチンコホールの新規オープンに我々社員一同も開店の応援に参加していたのです。その時のパチンコファンの熱狂振りは、わが人生の最大トピックニュース 5本の内には入るでしょう。
それ以降はいわゆるフィーバーブームと言われたように「パチンコの歴史が塗り替えられた!」と言っても過言ではないと思います。こんなこと言うと一部から叱られてしまいますが・・・。
それまで名古屋メーカーさんがシェアの主導権を持っていましたが、しばらくの間は関東メーカーさんに変わることになったのでは?と思います。
当時の私の任務はパチンコホールのオーナーさんに、ウン千万のコンピュータを売り込むわけですから、今考えれば良い勉強をさせてもらいました。
なにせ昼間にホールへ行ってもそこにいるのは店長さんくらいなものでオーナーはいません。昼間は営業車で昼寝して、閉店後の夜10時半頃に行くとオーナーがベンツで登場となり、そこから私の仕事が始まるわけです。「何千万する設備が何日の間で償却できるのか」頭脳明晰なオーナーはものの20分足らずで結論を出すことになります。商売の基本と言いますか、ビジネスの原理原則がこの世界にあるということを色々教えてもらいました。私の人生に多大な影響を受けました。感謝に耐えません。

その後転職した先は、水泳プールの浄化装置を製造販売する会社でした。MS-DOSによる2次元CADソフトが登場したこの時、今思えばパーソナルコンピュータ時代の幕開けでした。 入社した会社が初めてCADを導入することになり、メーカーからの出張教育も3日間で60万円かかる・・・とのことで、私が前職でコンピュータの経験があるという理由からCADの教育を受けることになりました。当時のCADの出来栄えは、バグだらけ状態で例えば、3点を通過する円弧を求めると、あり得ない楕円をクルリと描いていました。
苦労して夜も布団の中でテキストを猛読して、何とかマスターした時には、「これからはCADの時代が始まるのでは?」という確信みたいなものが頭に刻まれていたのです。

私の転職は続きます・・・3年後のある日、新聞の求人広告から「営業求む・特にCAD経験者高給優遇」という3行広告を見つけて面接しました。
その会社は以前の社員がまとまって独立した・・・とのことで、社長と事務員の二人の会社でした。新規事業として、「アンドール社のCAD・CAMソフトの販売をスタートする」という計画でした。即刻、入社決定で、私と同時に2名の営業も採用されましたが、彼らはCADの経験がなかったため、わずかな基本給+能力給という条件でした。営業活動のほぼ1年後に同時入社した浅井さんが「やはり販売実績が思うようには進まないので、これでは家族を養えないから転職する・・・」との事情で私に2枚の名刺を渡してくれました。この会社はいずれ導入されるはずだから・・・との話しでした。その名刺が、名だたるパチンコメーカーさんと遊技機部品の開発・製造を取り扱う会社さんだったのです。

当時のアンドール社は、一方では、2年前から某パチンコメーカー様からの特注開発依頼を受けて、パチンコ専用のゲージ・ソフトの開発を進めていたんです。アンドールさんの営業からそんな話を聞いて、私は迷わず「そのソフトを販売させて欲しい」と切り出しました。
アンドール・神戸本社の担当営業はこう言いました。「えっ?このソフト、まだ他に売れるんでっか?」・・・私の人生にはこんなヒョンなご縁がありまして、アンドールさんから交渉していただいた結果、パチンコメーカー様のご理解をいただき、アンドール経由の認定販売店として独立開業することになったのです。1986年(41才)のことでした。(恥ずかしながら24才で入社してから41才で独立するまでの17年間に、10社に及ぶ転職をしたことになります。なぜか転職に際しては、以前と全く異なる業種の会社を選択しています。同じ業界に転職することはありませんでした。やはり何か納得のできない部分があったんですね。)

ゲージ・ソフトに関しては、従来と比較して正確且つ日程が大きく短縮され、宮山技研様の釘打ち機へNCデータとして送られます。あるメーカー様にパソコンを持ち込んでデモをした時の、社長の真剣な表情は今も忘れられません。
一通りのデモの後、まず言われたのは「何日で納品できる?」・・・この一言が、“私の人生最大の衝撃の一言”となりました。それから、樹脂部品の開発設計においては、ドラフターによる手書き図面だったのが急速にCADの利用に転換していったのです。
※現在の稼働状況・・・ゲージ・ソフトは23社様にて120set、2次元CADのCADSUPERは47社様にて560set程、ご使用いただいております。
※計画中のもの・・・現在、保通協提出用のソフトを開発予定でご要望を調査中です。

今思えば、その場面に遭遇したのは自分の発想でできたことではなく、「人生に1回あるか?という千歳一隅のチャンスにめぐり合ったんだ・・・」という気持ちがします。以降、パチンコの技術開発の進歩も、すでに70年経過しました。25年前にはパチンコの命は色と音の表現、と言われましたが・・・なるほど、その延長線で当時の想像を遥かに超えた発展を遂げてきたと思います。
今後もその進歩は止どまることなく永く存続をすることでしょう。さらなる新時代への転換を期待しています。

<文章> 株式会社キャドブレーン 代表取締役 貝川邦彦 様